バブルの再燃を許さない景気対策を

日本の経済成長もバブル崩壊により一転して長期間複合不況に陥っている。国土庁発表の公示地価によると、もう既に6年連続で価格は下落した。その要因は株の下落及び地価が高騰したために、その対策として実施された「国土法の監視区域による届出制」「不動産融資の総量規制」または公共放送の NHK 報道に端を発して流動がストップしたためである。
バブルとは株価が一体の役割をして形がつくられたのである。地価上昇のみにかぎって考察してみると、それは内需拡大政策や土地に対する規制緩和に加え、さらに低金利を背景に投機色を強めた取引に対し、金融機関が積極的な融資を行ったことが大きな地価上昇の要因ともいえる。

ここであえて具体的に地価下落の要因を探って見ても後の祭りだが、85年秋のニューヨークで開かれた先進国七カ国蔵相( G 7)でのプラザ合意に端を発している。途中は紙面の都合で省略する。そうしたきっかけに因って株価に突然変化が起き、急激にしぼんだ。それに加えて追い打ちをかけるように90年3月に不動産融資総量規制が行われ、銀行などから資金の流入が絞られた。だが、それは地価下落の最大要因ではなかったのだ。なぜなら融資の総量規制は農林系金融機関そしてノンバンクは外れていた。その上90年12月には解除されているにもかかわらず、地価は下げ止まらなかった。列島改造ブームの1973年以来の17年ぶりの再来となってしまったのだ。なんとなく人間の心理にも問題があるはずだ。

またここに来て飽きもせず世間では、地価下げ止まり傾向にあると勢いづいている。それは、建築基準法の改正案で容積率の緩和等の施行をにらんで企業が動き、そして早くも地権者は売り渋りの傾向が見られ、地価好転への転換点という事らしい。追随して不良債権や不良資金を抱える経済界にも旧態依然として、ミニバブル再燃を望んでいるという。バブルを作ったのが悪いのか、それともバブルをこわしたのが悪いのかをもう少し熟考し、大局的に察知したい。土地神話は望むべきでもなく、望んでもいけない。この複合不況を乗り切るには、土地以外の案件でもっと抜本的な改革があるはずだ。もう振り回されるのはゴメンだ。

財テクは企業だけでなく、一般でも資金運用の手段として常識化したのは忘れることは出来ない。不動産の値上がりは、一時的には資産家をますます豊かにした反面積極的に運用した者、つまり大資産家ほど相当な痛手を受け、資産を全部処理しても到底借入金は返済できないといわれている。これはバブル時最大の罪と言っても過言ではなかろう。国が損失を受け、国民が巻き込まれ、また自殺者も多数出ている事も忘れてはいけない。  

バブルを軟着陸させられなかった大蔵省の失策に因る失敗、その大蔵省の日本的なあいまい行政がこのようにしたとも言える。ぜひここに至っては、もうあいまいな施策はやめて頂きたい。10年から20年かけて不良債権、資産が有効活用される対策を講じなければなるまい。今大事なことは、土地バブル再燃を許さない政策の実行で景気の回復を図る1点に尽きる。  

広島のデルタを歩くリベラリスト(平成8年4月1日作)

 

 

予算配分の地域差別発言に思う

自民党がこの度、初めて行われた小選挙区制の総選挙で圧勝し、来年度の予算編成に向けて相次ぐ発言が出ている所である。自民党の加藤幹事長は「自民党に関係の深い地域に予算分配を考慮することはあり得る」と言ったニュアンスを発言した。

選挙の結果に因って地域の格差を決めていいものだろうか。その地域にはその地域なりの事情があって総選挙に望んだわけで、選挙に負けたからといって差別をすることは憲法14条第1項に因る「国民は、法の前で平等であり、政治的、経済的、社会的関係において差別されない」に反し、また民主主義にも反すると思える。

政権を握れば何でも自由に出来ると勘違いを起こしているのか。それとも加藤幹事長自身に問題があるのか。とんでもない事である。予算は国民全員のためのものであって、国民が税として納めたものを適正に配分するのである。  

加藤幹事長が述べられた事は、地域差別を生み出す発言であって、差別を無くして行こうとする地域にとっては、非常に憤慨を感じるもので、言い表しようがない。学歴、学閥ばかりが先行している政治家、官僚には、このような次元の低い考え方しかないのであろうか。

広島のデルタを歩くリベラリスト(平成8年11月30日作)

 

県民を無視した推薦依頼

先日新聞の紙面を見ていたら、来年夏に行われる参議院選に向けて広島県の2名の方が出馬表明ともとれる意志を伝える旨の記事が掲載されていた。しかし、ニュースやら記事を読み聞きしたところによると、意思表明された元県会議員、現職県会議員は自民党の推薦がなければ立候補しないと、だだをこねたようなニュアンスを示したというのではないか、まったくあきれてものも言えない状態だ。一体何を考えているのがさっぱり分からない。

推薦があれば、当選するのではないかと、国民を欺いた錯覚を起こしているにちがいないと首をかしげて憂慮するのだが、非常に腹立たしい。

主憲は国民にあるのに、自民党執行部に判断をあおぐとは何事かと言いたい。これは自己中心主義の何ものでもない。地道に社会貢献してこそ人は推すのである。勘違いをしてもらってはいい迷惑だ。

今、広島は空洞化している。この不景気をどう乗り切るか大変な時期である。そこをよく理解して、本当の意味での選挙戦にのぞむべきだ。この際は双方とも推薦を受けず、普段の努力の成果で、選挙戦の審判を仰ぐべきではないだろうか。

広島のデルタを歩くリベラリスト(平成9年11月26日作)

 

「一人くらい」返上し投票を

「明るい社会へ若者は投票を」(22日付本欄)に全く同感である。自分一人だけが棄権しても政治に対して影響はない、と思うのは勘違いだ。大勢の人がそのように考えると投票率が落ちて、そのため国民の意見が集約されない。自分だけはと思う気持ちを裏返しにし、ぜひ一票の重みの訴えをしよう。

立候補している者が国民の代表として選ぶには値しないかもしれないが、より自分に近い考えを持つ人に託そうではないか。頭から投票しないのでは、夢も希望もないではないか。

一票は参加してこそ反映される。人まかせにしないことだ。それでこそ政治に対して意見が言えるのだ。

日本という小さな島国では全員が団結していかないといけない。政治家を悪いというが、参加しないほうがもっと悪いように思える。 

国家の主権は人民にあって、平等であるはずだ。従って国民全員が政治家ともいえる。私は20歳で権利を得て以来、選挙を棄権したことがない。それは一つの取りえであろうか。

広島のデルタを歩くリベラリスト(平成9年3月25日作)

 

新空港へのアクセスの工夫を

前々から所用で上京する時は、新幹線よりも飛行機を利用していた。岡山とか大阪へ行く場合以外は、新幹線はほとんど利用しなかった。それは、広島市の市街地に飛行機の東京便があった時の話であって、市内に住んでいる私にとっては飛行機の方が早くて便利がよかったからである。

それが時代の長足の進歩によってメインの空港が、旧空港では対応できなくなったので、広島市から東方に約50km と離れるに致った。

そんなことでは現在は、飛行機は便利が悪くて利用していない。今は、新幹線を利用し、上京する。その主たる理由は、広島駅に行けば便数も多く、乗ってしまえば東京駅に必然的に着くといったことと、手続きが簡単なことである。

新幹線と飛行機を利用するのも、それぞれの立場があって色々な利用の仕方があろう。それは取りも直さず経営者の経営方針にもつながって共存共栄となっている。

しかし、時によっては私は、また飛行機を利用させてもらうことがあると思うし、市民の方々もそうだと思われる。

前の県知事は「運行には絶対安全の保証が必要。新空港へのアクセスは金と時間があれば可能だ」との結果で新空港が離れるに致った。そこで、是非とも新空港への軌道系アクセスの工夫を広島市の活性化のためにも一刻も早くお願いしたい。

広島のデルタを歩くリベラリスト(平成9年11月25日作)

 

小企業の支援に商工会議所充実を

最近、広島商工会議所の運営に疑問を感じることがある。私も会員だが、この組織はいったい何を目的としているのだろうか、と。

本来は、零細の小企業を含めた商工業者の意見を行政機関に反映させ、また会員に対し助言、支援などを行うべき団体だ。にもかかわらず、大中企業の意見などの集約が多いように感じる。

組織が安定している企業は、シンポジウムや異業種交流などの参加に時間も取れて、有効に活用できるかもしれない。しかし、零細の小企業は日々の雑用、仕事に追われ、あるいは仕事がなく、それどころではない状態で、生活もままにならない人もいるだろう。

昨今は不景気から脱出できず、仕事が減り続けている業種もある。そんな中、会費はきちんと納めて、大変な負担であろうと思う。ある会員の例だが、資金繰りが悪く運転資金借り入れのあっせんを商工会議所へ相談したが、審査基準が厳しく利用できなかった。  

商工会議所は公的資金も導入しており会費収入もある。それらは職員の報酬その他経費で手いっぱいなのであろうか。金融部をより一層充実させ、会員の経済基盤を安定に導いていただきたい。

広島のデルタを歩くリベラリスト(平成8年11月16日作)

 

表現の自由は民主主義の根本

今、日本は民主主義社会である。主権は人民にあって言論や表現も自由のはずだ。ところが近年、人権や民主主義と称しながら自由な言論や表現を封じ込めようとする動きが目立ち始めている。封建主義社会に時代を逆戻りしているかのような傾向だ。

最近、評論家の櫻井良子氏は、「『従軍慰安婦』の軍や警察による強制連行説に対して疑問を呈した問題の講演会が、人権団体による中止要請や組織的な抗議電話によって次々に中止に追い込まれた」と警鐘をならしている。そして芥川賞作家の柳美里氏のサイン会が「右翼」を自称する男の脅迫電話のためにこれも相次いで中止に追い込まれたという事実も報道されている。

このような行為は、あってはならないはずなのに…。あらゆる意見、のびやかな表現が活発に行われるべきである。作家、ジャーナルストに対する圧迫であるばかりでなく、生活権に対しても侵害されている。私もさまざまな事を執筆し、また寄稿もしている。それは憲法によって保障された基本的人権があるからでもある。なおかつ言論の自由も確保されているから、常識の範囲内で言論や表現をしている。

戦後民主主義は、憲法に保障され、基本的人権としての言論の自由は確保されているのだ。自由がない民主主義は、本質的において、民主主義の定義に反するので、何とか基本的ルールの確立は保ち続けたいものである。

私は、広島の歴史について書いた本を平成8年12月16日に出版した。自分なりの意見を、ふんだんに取り入れて、世間に知らしめた。本を刊行させるには、大変な努力がいる。私の場合は、史実に基づいて書かねばならなかったので皆様の協力がいった。多くの方に大変なお世話になった。つまり本を出せたということは、言論の自由があったからこそである。
売り上げの一部は、福祉事業に役立てたい。  

広島のデルタを歩くリベラリスト平成9年4月17日作)

 

地球は生命体

地球人類とは、一体なんだろうか・・・・・・。ここにはあらゆる生物が生存している。そんな中で、いわゆる人間は地球という球体を仕切っているのだろうか。この球体の上での生物同士の争いなど、ごちゃごちゃした事は何なんだ。共存共栄なんだろうか。いや弱肉強食ではないのか。なぜ球体の中で色々ともめ事が起きるのか。宇宙全体から見れば、ちっぽけな球体の中での事のはずだ。物事をもっとグローバルに察知しないと、この地球は枯れてしまうかもしれない。

地球は壮大な宇宙を支配してもいない。ひとつの天体として生かされているのだ。つまり、この球体は一つの生命なのだ。

この一つの生命の内の人間は偉いのだろうか。私にはよく分からない。人間は都市も造った。そして原子兵器も造って広島、長崎へ原子爆弾を落とした。

球体の中の人間、いや生物は、皆生かされているはずだ。もちろん地球も息をしている。海があって魚が泳いで、また陸地には木も草も花も茂り、いろいろな動植物が生きている。そして山も火山によって息をしている。球体もプレートなどが活動して地震となって、うごめいている。

表面上には雨や雪などが降ったり、雷が落ちたり、台風がやって来たりと、さまざまな動きがある。皆、それぞれが躍動しているのだ。だから大自然の中での生き方もあるはずで、均衡がとれているのではないだろうか。これは地球外からのメッセージがないと認識出来ないかも知れない。いやそんな事はない。

たとえ人間が認識したとしても、それは人間が勝手に考えることになってしまう。あらゆる動植物も、または地球も認識がないといけない。それを人間がくみ取れたら、それは立派だと思える。

だから私は、人間以外の動植物から、人は一体どの様に見えるのか一番知りたい事である。そうして見ると、それぞれの言い分が、理解できるようになると思う。それ故地球生命体は共存共栄でいかないといけない。

今私は、筆を走らせているが、これも何だ。哲学というものが私にはよく理解しずらい。だけど、地球生命体の全動植物と話し合ってみたい。しかしそれは無理だろう。また地球のパートナーである月にも問うてみたい気分だ。結論は長々やっても出ないかもしれないが、つまり人間は人間らしく生きて行くのみしかないかも・・・・・・。その指針すら今人間は分からなくなっているのではないだろうか。

広島のデルタを歩くリベラリスト(平成9年3月27日作)